生きていると、ごくごく頻繁に「もういっかな」と思う瞬間がある。
ごく稀に、ではなく、ごく頻繁に、だ。
「もういっか」というのは、「もう生きてるの止めてもいっか」であり、「明日起きて、一日を乗り切る気力も体力も湧かないし、生きるのを諦めようかな」と
いう、生存の継続に対する諦め、である
いわゆる「希死念慮」というものが、生活の中で、ずっと隣に張り付いていて、常に生きる事に影を落とし続けている。
これがまた、非常にしんどい。
言うなればゲームにおける、「デバフ」を掛け続けられながら、生きている状態。
常にスッキリとせず、死にたい気持ちが、頭に靄として掛かっている。
楽しい筈の事も、楽しく感じられないし、常時不調、さっぱりと生きられないのだ。
例えるなら、マラソンのように走り続けていたとして、止まってしまうともう動けなくなるのだけれど、「もうヘトヘト、動けません」というのが、人生に起きるような感じ。常にヘトヘト。「もう勘弁してください」と、生きる事に訴えている。
それが、ほぼ毎日毎晩、繰り返されるのである。
酷い時には、三分に一度は「もういいわ、死のう」と、口癖のように思考している。
最早、カップ麺の出来上がる時間で、ぐるぐる、希死念慮に襲われているのだ。
とは言え、それでも起きれば仕事には行くのだし、偉いものである。
「生きたくないし、仕事も行きたくない。」
という気持ちをグッと押し込めて、我慢して踏ん張って仕事に行くのである。
それだけで、既に気力も行動コストも消費してしまうので、日々クタクタなのだ。
ステータスが「どく」のまま、戦闘し続けなければいけない。そんな感じ。
生きる積極的な事由が無いのも問題だ。
何一つとして、生きている中で楽しみが無い。
そして、事由が有ろうが無かろうが、生き続けた先には、恐ろしい「老い」が待っている。
老人介護施設で働いていた私には、老いると何がどれだけどうなるか、リアルな現状を、日々まざまざと見てきた。
この国に生きる以上、免れない限界の世界。
そして、将来現役を過ぎた己の未来に、毎夜、過呼吸起こす程に不安を抱いている。
真面目に、通帳の数字を見るだけで、酷い過呼吸を起こす。
正直、いまこの国に、どれだけ老後の人生の安心を保証出来るひとが居るか、という点において、ほぼ半分くらいはジリ貧の老後しか選択出来ないんじゃないかとは思っている。
だからと言って、皆が貧乏だから自分も貧乏ギリギリで生きようぜ、というのは違うだろう。
皆総じて横並びにジリ貧、そんな時代は間違いなく来そうだけれど。
ともあれ、そんなジリ貧の未来がほぼ確定したアラフォーにもなった私には、生きる気力を維持できる目的も希望も無い。
日々の仕事をこなして、散々に疲弊して見る通帳の数字。
突き付けられる現実に、走り続ける気力は無になる。
ああいつまで続くんだろう、いっそ終わりたい。
不安に過呼吸で苦しい中、「もういっかな」と思ってしまう。
この世間にはびこる、行き詰まり。
システム自体が行き詰まり、改善の兆しは無い。
声を挙げよう、表現して、少しでも声を出そうと思った時期もあった。
結局、何ひとつなし得ず、芽吹かないまま、日々の生活を維持するために忙殺された。
私って何のために生きているのかなぁ。
たぶん、こんな風に考えながら生きているひと、多いんじゃないかな。
この先に、何も成果を残せず、苦しみ喘ぎながら老いていくのか。
そう思っただけで、走り続けた脚が止まりそうになってしまう。
行く先に希望も何もなく、薄っすらと絶望が隣に居る気配がある状態。
それじゃあ、どんなにポジティブな人間だろうと、消耗しちゃうでしょうよと。
ただね、「苦しい苦しい」と言い続けても、ここまで何とか生き延びてきたことも事実で。
それを「もう駄目だ」って止めちゃうには、勿体ないなあとは、少しばかり思うような気もしないではない。
「死にたい」が口癖にはなっている。
その反対側で、「そりゃあちょっと勿体ないよ」と思う自分。
泣いてる子どもをあやすが如く、荒れ狂う今日の希死念慮をいなしながら、また夜を越えるのです。


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